海賊は海におけるテロである。ソマリア周辺海域で海賊が頻発する最大原因は同国の統治機能の崩壊である。海賊は、ロケット砲を含む重火器で商船などを襲撃し、身代金目当てに乗組員を誘拐するなど暴力的かつ悪質である。同海域における海賊件数は増加しており、昨年は100件を超えた。乗っ取られた船も36隻であり、乗組員の被拘束者も700人にのぼる。
この海域を航行する日本船舶は1日平均5・5隻で年間2000隻を超え、昨年、この海域だけで7件の被害にあった。特に、このうち500隻に及ぶLNGタンカーは低速であるため海賊の格好の目標になっている。
この海賊対策に関して国連は4つの国連安保理決議を採決している。すでに艦艇派遣した国々も少なくない。現在は、EU艦艇(英独仏伊ギリシャなど)、コアリション艦艇(米英仏デンマークなどの多国籍軍)、各国独自の艦艇(中国、ロシア、インド、マレーシアなど)の3グループ計約20隻であるが、全体として艦艇数が不足している。
わが国としては、資源確保の点で重要なタンカーと乗組員の安全を守るため、速やかに海上自衛隊を派遣すべきである。海上保安庁(巡視船艇)では重装備の海賊が跋扈(ばっこ)するソマリア海域に有効に対応できない。各国の海軍艦艇、哨戒機との情報交換や協力活動の点からも海上自衛隊の艦艇が望ましい。
≪新法制定は最善策だが…≫
ここで障害となるのは、各国が新たな法的措置を必要とせず艦艇派遣できるのに、わが国は法的根拠を必要とすることである。海上自衛隊を派遣するのであれば、8日付本紙で櫻井よしこ氏が指摘しているように、明確な武器使用規定を含む新法を制定するのが最善の策である。
問題はこの新法がいつ、どのように成立するかという点にある。
麻生総理は先月末、新法には時間がかかる、まずは海上警備行動で、と政府部内に検討を指示した。現在、内閣が新法草案の検討を進め、与党内でも検討を開始した。
新法は、派遣の根拠をどうするか、武器使用権限をどこまで認めるか、他国の船舶を救援できるか、海賊逮捕後の措置をどうするか、などクリアすべき問題が多い。しかし国益という観点から検討し、ぜひとも立法化を実現してほしい。
だが新法を3月にまとめ国会に提出しても、ねじれ国会のもとで成立するかどうか不透明である。成立しても、それからの準備で艦艇が現地に到着するのは初夏になる。わが国の海賊対策はそれまで待てない。
中国はすでに艦艇3隻を派遣した。韓国も法律を準備しており、近くコアリション・グループに参加する予定である。台湾も近く艦艇を派遣すると聞く。他国の例はおくとしても、この海域を航行するわが国船舶が危機に直面している時に、これを見過ごすわけにはいかない。
≪関係省庁の調整ですむこと≫
防衛省では、大臣指示の海上警備行動で派遣した場合の問題を含めて検討し、近く大臣に報告される。海上警備行動だと新法が要らないので迅速に対応できる。しかしこの場合、武器の使用が取り締まりの執行への抵抗の抑止、自己または他人の防護に限定される。犯人逮捕や逃走防止のために武器使用ができない。それでは、他国の救援はできない。また海上保安官を乗船させるにしても、逮捕した海賊を日本まで連行して裁判にかけるのが適切か、といった問題が残る。
海上警備行動は本来、海域警備を担当する海上保安庁(巡視船艇)では対処できないような警護対象に対して海上自衛隊(護衛艦)が代わって対応するものである。この規定に基づく海上警備行動は警察活動の延長上にあるが、その対応は、個別的自衛権行使という性格を持つ。この活動を国連安保理や国際協力、日米同盟と関連づけて説明する必要はない。
そうした問題は新法を審議する際、議論されればよい話である。もちろん、現場では他国と情報交換などの面で協力する場面もあろうが、目的はあくまで日本の船舶、船員の安全を含めた国益を守ることにあるのである。わが国としてはまず、海上警備行動によって迅速に対応しつつ、同時に、速やかに法案化を進めることが賢明である。
中国国有企業の理事長
2009/1/23
19日付の香港各紙は、アフリカ南部ジンバブエで独裁的な政権運営を続けるムガベ大統領のグレース夫人が15日、香港の繁華街でのショッピング姿を撮影した英紙サンデー・タイムズのカメラマンの顔面を10回以上殴打し、負傷させたと伝えた。
明報によると、夫人は購入したブランド品を持って高級ホテルを出たところを撮影された。カメラマンは夫人のボディーガードに取り押さえられ、倒れたところを夫人に殴打された。夫人は大きなダイヤモンドの指輪をはめており、カメラマンは顔面9か所に裂傷を負った。
15日付の香港各紙によると、香港の銀行で偽1万円札2390枚を両替したとして、中国本土出身の男(56)が14日、偽造通貨行使の罪で起訴された。
男は「偽札だとは知らなかった」と主張している。
「明報」紙によると、男は中国国有企業の理事長で、7日、仲間の女に偽1万円札を預け、196万香港ドルに両替させた。銀行はその後、偽札と気づき、警察に通報。男は、女が逮捕されたあと、警察に出頭した。
9日付の香港紙・明報によると、中国重慶市で8日午後、中国空軍のロシア製戦闘機スホイ27が訓練飛行中に爆発し、山中に墜落した。
パイロットの生死は不明という。事故後、軍の指示により、現場一帯の携帯電話など通信が一時的に遮断された。昨年5月の四川大地震で被災した市民は、激しい爆発音から地震の再発と思いこみ恐慌状態となった。
中国では昨年、福建省と内モンゴル自治区でいずれも戦闘機同士の衝突事故が起きている。
明報によると、夫人は購入したブランド品を持って高級ホテルを出たところを撮影された。カメラマンは夫人のボディーガードに取り押さえられ、倒れたところを夫人に殴打された。夫人は大きなダイヤモンドの指輪をはめており、カメラマンは顔面9か所に裂傷を負った。
15日付の香港各紙によると、香港の銀行で偽1万円札2390枚を両替したとして、中国本土出身の男(56)が14日、偽造通貨行使の罪で起訴された。
男は「偽札だとは知らなかった」と主張している。
「明報」紙によると、男は中国国有企業の理事長で、7日、仲間の女に偽1万円札を預け、196万香港ドルに両替させた。銀行はその後、偽札と気づき、警察に通報。男は、女が逮捕されたあと、警察に出頭した。
9日付の香港紙・明報によると、中国重慶市で8日午後、中国空軍のロシア製戦闘機スホイ27が訓練飛行中に爆発し、山中に墜落した。
パイロットの生死は不明という。事故後、軍の指示により、現場一帯の携帯電話など通信が一時的に遮断された。昨年5月の四川大地震で被災した市民は、激しい爆発音から地震の再発と思いこみ恐慌状態となった。
中国では昨年、福建省と内モンゴル自治区でいずれも戦闘機同士の衝突事故が起きている。
— posted by サイト管理者 at 05:41 pm
派遣村で過ごしていた
2009/1/10
東京・日比谷公園の「年越し派遣村」は5日撤収され、約500人の失業者のうち希望した286人が都内4カ所に用意された新たな施設に移った。移動先では求人情報が紹介され、一部の人は生活保護が認められた。生活再建に向けた動きが本格的に始まった。
4カ所の一つで中央区が運営する京華スクエア(旧京華小)の体育館では、約80人に弁当や毛布が配られた。元旦から派遣村で過ごしていた男性(50)は「まずは落ち着いた」と胸をなで下ろした。
施設は12日まで開放される予定。ハローワークの臨時窓口も置かれ、寮付きの求人情報(約3000人分)が紹介された。また、派遣村にいた失業者のうち75人が千代田区に生活保護を申請し、簡易宿泊所に移ることを決めた5人については即日、保護費の受給が認められた。6~7日もそれぞれ80人が窓口を訪れる予定で、生活保護の申請者は計約230人に上る見通し。
一方、国会ではこの日午後、野党4党が呼びかけて院内集会が開かれ、派遣村の村長を務めたNPO「自立生活サポートセンターもやい」の湯浅誠事務局長らが住居や食の確保、派遣切りを止める緊急立法の必要性をアピールした。湯浅事務局長は「生きようという人たちを支えられる社会にしてください。舞台は政治に移ります。よろしくお願いします」と訴えた
4カ所の一つで中央区が運営する京華スクエア(旧京華小)の体育館では、約80人に弁当や毛布が配られた。元旦から派遣村で過ごしていた男性(50)は「まずは落ち着いた」と胸をなで下ろした。
施設は12日まで開放される予定。ハローワークの臨時窓口も置かれ、寮付きの求人情報(約3000人分)が紹介された。また、派遣村にいた失業者のうち75人が千代田区に生活保護を申請し、簡易宿泊所に移ることを決めた5人については即日、保護費の受給が認められた。6~7日もそれぞれ80人が窓口を訪れる予定で、生活保護の申請者は計約230人に上る見通し。
一方、国会ではこの日午後、野党4党が呼びかけて院内集会が開かれ、派遣村の村長を務めたNPO「自立生活サポートセンターもやい」の湯浅誠事務局長らが住居や食の確保、派遣切りを止める緊急立法の必要性をアピールした。湯浅事務局長は「生きようという人たちを支えられる社会にしてください。舞台は政治に移ります。よろしくお願いします」と訴えた
— posted by サイト管理者 at 04:11 pm
尾張の鍛冶屋
2008/12/29
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。肥後熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦し武功を挙げ肥後北部を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となった。「賤ヶ岳七本槍」の一人である。主君秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くしたことが有名。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 秀吉の子飼い
1.2 豊臣家臣時代
1.3 関ヶ原の戦いから江戸時代
2 人物
2.1 清正の熊本での事業
2.2 清正の忠義
2.3 逸話
3 死因
4 手話単語のモチーフとして
5 家臣団
6 脚注
7 清正が登場する著書・作品
8 清正に関する研究書
9 関連項目
10 脚注
11 外部リンク
[編集] 生涯
[編集] 秀吉の子飼い
永禄5年(1562年)6月24日、尾張の鍛冶屋加藤五郎助(清忠)の子として、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから血縁関係にあった秀吉に仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。清正は秀吉の遠戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた。
[編集] 豊臣家臣時代
天正10年(1582年)に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って同年の山崎の戦いに参加した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた。
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下、主計頭に叙任する。天正14年(1586年)からは秀吉の九州征伐に従い、肥後に入った佐々成政が失政により改易されると肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とした。このとき、肥後半国と讃岐とどちらかを選べと言われ、肥後を選んだという逸話がある。肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。
文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵する。文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置いた。二番隊は一番隊の小西行長とは別路の先鋒であり、4月17日の釜山上陸後は小西行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は小西行長の一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定、朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。更には朝鮮の国境豆満江を越えてオランカイ(兀良哈・現在の中国東北部)へ進攻するなど数々の武功を挙げた。
しかし交渉材料に朝鮮二王子を返還してしまうなど、慶長元年(1596年)、石田三成と明との和睦をめぐって意見の対立が生じ、それが元で秀吉の勘気を受けて一時は京に戻される[1]。
慶長2年(1597年)からの慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。次に忠清道鎮川まで進出後に西生浦倭城に駐屯した。日本側では西生浦倭城の東方に新たに浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続によって清正が縄張りをした蔚山倭城を築城し、完成後清正を守備につける予定(西生浦倭城には黒田長政を駐屯予定)であったが、慶長2年(1597年)12月に完成間近の蔚山倭城への明の大軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。未完成で水も食糧も乏しい状況で明・朝鮮の大軍を防ぎきり、毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いた。慶長3年(1598年)9月にも再び蔚山倭城は攻撃を受けるがこれも撃退に成功する。
清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼(幽霊)上官」と恐れられた。なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残り、そこから虎拳という遊びの元になった。セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。
確認中です。
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1 生涯
1.1 秀吉の子飼い
1.2 豊臣家臣時代
1.3 関ヶ原の戦いから江戸時代
2 人物
2.1 清正の熊本での事業
2.2 清正の忠義
2.3 逸話
3 死因
4 手話単語のモチーフとして
5 家臣団
6 脚注
7 清正が登場する著書・作品
8 清正に関する研究書
9 関連項目
10 脚注
11 外部リンク
[編集] 生涯
[編集] 秀吉の子飼い
永禄5年(1562年)6月24日、尾張の鍛冶屋加藤五郎助(清忠)の子として、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから血縁関係にあった秀吉に仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。清正は秀吉の遠戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた。
[編集] 豊臣家臣時代
天正10年(1582年)に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って同年の山崎の戦いに参加した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた。
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下、主計頭に叙任する。天正14年(1586年)からは秀吉の九州征伐に従い、肥後に入った佐々成政が失政により改易されると肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とした。このとき、肥後半国と讃岐とどちらかを選べと言われ、肥後を選んだという逸話がある。肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。
文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵する。文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置いた。二番隊は一番隊の小西行長とは別路の先鋒であり、4月17日の釜山上陸後は小西行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は小西行長の一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定、朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。更には朝鮮の国境豆満江を越えてオランカイ(兀良哈・現在の中国東北部)へ進攻するなど数々の武功を挙げた。
しかし交渉材料に朝鮮二王子を返還してしまうなど、慶長元年(1596年)、石田三成と明との和睦をめぐって意見の対立が生じ、それが元で秀吉の勘気を受けて一時は京に戻される[1]。
慶長2年(1597年)からの慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。次に忠清道鎮川まで進出後に西生浦倭城に駐屯した。日本側では西生浦倭城の東方に新たに浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続によって清正が縄張りをした蔚山倭城を築城し、完成後清正を守備につける予定(西生浦倭城には黒田長政を駐屯予定)であったが、慶長2年(1597年)12月に完成間近の蔚山倭城への明の大軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。未完成で水も食糧も乏しい状況で明・朝鮮の大軍を防ぎきり、毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いた。慶長3年(1598年)9月にも再び蔚山倭城は攻撃を受けるがこれも撃退に成功する。
清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼(幽霊)上官」と恐れられた。なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残り、そこから虎拳という遊びの元になった。セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。
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— posted by サイト管理者 at 11:55 am
全国的に展開した
2008/12/13
この時期と前後して4世紀中葉(350年頃)からヤマト王権(倭国)は朝鮮半島との交易を開始した。当時の倭国には鉄鉱の産出がなく、朝鮮半島から鉄原料を輸入した。朝鮮半島の任那(加羅)は鉄の産地だった。輸入した鉄資源をもとに鍬・鋤などの農業用鉄製品が製造され、農業技術の革新・開墾の活発化などが起こり4世紀後葉から5世紀にかけて倭国の農業生産力は大きく向上した。これにより、経済力をつけたヤマト王権は鉄資源を求めて朝鮮半島へ経済的・軍事的に進出し始めた。ヤマト王権(倭国)は百済と連携して朝鮮半島南部への出兵を頻繁に展開し、このことは高句麗が遺した広開土王碑にも記述されている。また、朝鮮半島南部を中心にいくつもの倭独特の前方後円墳が発見されており、中国の史書からも倭への朝鮮半島南部の支配権を認める記述があることから朝鮮半島南部(任那)は大和王権が統治していた地と有力視されている。ヤマト王権と朝鮮半島諸国との交易が活発化した背景には、北方の高句麗から圧迫を受けつつあった百済が対抗のために近隣諸国(新羅・加羅諸国)と連携を強めていたことが挙げられる。この結果、ヤマト王権(倭国)と朝鮮半島諸国との関係・通交が活発化したのである。ヤマト王権が東北から南九州まで全国的に展開したことは、この朝鮮半島諸国との活発な関係・通交が密接に関係していると考えられている。
4世紀後葉より以前ヤマトの王の墓はヤマト(奈良盆地)に営まれていたが、それ以降は河内平野に築かれることが多くなった。このことから王権の基盤がヤマトから河内へ移動したとする説、王権の基盤はヤマトだが海外通交の窓口となる河内を開発したとする説、それまでの王統が断絶して新王統が成立したとする説(河内王朝説)、などが提出されている。日本書紀の記述などから少なくともオオササギ王(仁徳天皇)は難波に本拠を置き河内平野を開発したことが判っており、当時の河川改修痕跡(難波の堀江)や堤防痕跡(茨田堤)も残存している。
5世紀に入ると、ヤマト王権の王は中国王朝へ朝貢を始めた。修貢して倭国王に冊封された王が中国史書に5名記されていることから、これらの王は倭の五王と呼ばれる。朝貢を行った理由・背景は明確にはなっていないが、おそらく朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)に於ける利権争いへの参入を有利に進めるためであろうと考えられており、実際に中国史書には倭へ朝鮮半島南部の支配権を認める内容を記している。中国や朝鮮半島諸国との通交・人的交流などにより技術や文化を持った多くの人々が渡来し、ヤマト(倭国)へ貢献した。渡来人(帰化人)は養蚕、機織り、製陶、建築などの先進技術や『論語』に代表される中国文化、文筆・出納などの実務技術をヤマト(倭国)へもたらした。ヤマト王権はこれらの渡来人や全国各地の豪族たちを徐々に組織化していくとともに(部民制の形成)中央の豪族層を大臣・大連を頂点として系列化していった。これにより、5世紀ごろには簡易な官僚制が形成されていたとして、それまでの王の権威を権力の源泉としていた「ヤマト王権」から王を中心とする政治組織が権力を担う「ヤマト政権」への転換がなされたとする見方もある。
この期間のヤマト王権(ヤマト政権)を代表するのがワカタケル王(雄略天皇)である。ワカタケル王に比定される倭王武が中国へ送った上表文にはヤマト王権が各地を征服していった様が記述されているが、考古史料からは倭国内部に独自性を持った首長層が多数存在していたことが示唆されている。このことから、当時の実態はヤマト王権が他の首長より優越はしているが強い支配関係にはなく、ヤマトと他地域の連合政権的な性格だったと考えられている。日本書紀の記述から、5世紀後半には吉備や播磨、伊勢などの首長がヤマト王権へ対抗するなどの動きがあったと推測されており、そうした中で登場したワカタケル王は強化した軍事力をもとに各地の首長への支配力を強めていった。
確認できております。
4世紀後葉より以前ヤマトの王の墓はヤマト(奈良盆地)に営まれていたが、それ以降は河内平野に築かれることが多くなった。このことから王権の基盤がヤマトから河内へ移動したとする説、王権の基盤はヤマトだが海外通交の窓口となる河内を開発したとする説、それまでの王統が断絶して新王統が成立したとする説(河内王朝説)、などが提出されている。日本書紀の記述などから少なくともオオササギ王(仁徳天皇)は難波に本拠を置き河内平野を開発したことが判っており、当時の河川改修痕跡(難波の堀江)や堤防痕跡(茨田堤)も残存している。
5世紀に入ると、ヤマト王権の王は中国王朝へ朝貢を始めた。修貢して倭国王に冊封された王が中国史書に5名記されていることから、これらの王は倭の五王と呼ばれる。朝貢を行った理由・背景は明確にはなっていないが、おそらく朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)に於ける利権争いへの参入を有利に進めるためであろうと考えられており、実際に中国史書には倭へ朝鮮半島南部の支配権を認める内容を記している。中国や朝鮮半島諸国との通交・人的交流などにより技術や文化を持った多くの人々が渡来し、ヤマト(倭国)へ貢献した。渡来人(帰化人)は養蚕、機織り、製陶、建築などの先進技術や『論語』に代表される中国文化、文筆・出納などの実務技術をヤマト(倭国)へもたらした。ヤマト王権はこれらの渡来人や全国各地の豪族たちを徐々に組織化していくとともに(部民制の形成)中央の豪族層を大臣・大連を頂点として系列化していった。これにより、5世紀ごろには簡易な官僚制が形成されていたとして、それまでの王の権威を権力の源泉としていた「ヤマト王権」から王を中心とする政治組織が権力を担う「ヤマト政権」への転換がなされたとする見方もある。
この期間のヤマト王権(ヤマト政権)を代表するのがワカタケル王(雄略天皇)である。ワカタケル王に比定される倭王武が中国へ送った上表文にはヤマト王権が各地を征服していった様が記述されているが、考古史料からは倭国内部に独自性を持った首長層が多数存在していたことが示唆されている。このことから、当時の実態はヤマト王権が他の首長より優越はしているが強い支配関係にはなく、ヤマトと他地域の連合政権的な性格だったと考えられている。日本書紀の記述から、5世紀後半には吉備や播磨、伊勢などの首長がヤマト王権へ対抗するなどの動きがあったと推測されており、そうした中で登場したワカタケル王は強化した軍事力をもとに各地の首長への支配力を強めていった。
確認できております。
— posted by サイト管理者 at 11:06 am














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